高松/高松城址


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「正面入口」のお堀/
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「正門」です
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「見張り台」
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現代の「天守閣」!?
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本丸への「入口」
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内堀/右側
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内堀/左側
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そして...
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この先に、本物の「天守閣」があった
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お堀には「海水」が入ります
水位によって、調整する
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だから、以下の2枚の写真の建物は、
水門の「見張り台」なんです
...パンフレット等では「天守閣」っぽく掲載されていいたりしますが
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高松城の「天守閣」はなかった!!

だから「高松城址」

どういう経緯かわからないが、本丸の石垣の上には「城が無い」
これから、発掘研究されて「再建築」される模様


ここで「城」についてのまとめ/

「松山城」は、戦国の世の城
だから山の上にある
戦いの基本は「守り」だから、まずは攻め込まれないところに陣を張る
そのためには「山の上」が良い

松山城は「山城」

つまり、四国の街は松山市の方が古いと思われる

あるいは、高松市にも「昔は山城があった」が、政権交代の激しかったことと関西地域に近いことから、江戸時代になって、新しく城が出来たのかも?

高松城は、海に近い平地にあり、しかもゴージャス

それは戦うための城ではなく「力を誇示すること」が目的だから
江戸時代になり「戦乱の世ではなく」なってから、建てられた

けれど「天守閣」の全貌は、解っていない模様
江戸時代の末期まで「あった」はずなのだが

意外と「歴史」というものは、受け継ごうという強い意思が必要であり、ほんの些細な「アクシデントまたはトラブル」で継承の道が途絶えてしまうものらしい

「高松城」は、300年の歴史の『徳川』直系の城
それでも、それを伝承することは難しい

規模は違うにせよ

継承しなければならないものは「歯を食いしばってでも」受け継いでいかなかれば、未来には何も残らない...
高松城ですら、まだ約200年前には「実際にあった」のだから...

「諦めない!」が、そのココロの原点


おまけのショット/

すぐ裏手にあった「城内中学校」の校歌
※1番のみ(2~3番もあったけど、未撮影)
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「ヒトの世」の法則/

その土地の一等地には「城や
神社など、そして役場」が出来る
(しかも、そこは治水の出来た場所)

その傍には、何らかの「教育施設」が出来る
(...ここには、中学校があった)

そして、その周辺に「お寺さん」等が出来て「ヒトの住居」がその周りを取り囲む

最後に、展望の良い所や、ときにあまり外部の人間が行かない処に「墓地」が出来る


それが「ヒトの営み」あるいは「街の出来ていく形体」「道すじ」


この法則は「武ちゃんとの旅」で、北海道でも各所で見た
それが「輪廻」のように繰り変えされ、ヒトの世の「歴史」は作られていく...

しかし、自然発生的ではあっても「ヴィジョン」があってしかるべきモノ
それは、その地域で考えることが一番であり、これからの「ベース」でもある


高松のTP


高松のTP


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